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紙ふぶき

潤徳小学校の歴史
について

今から150年前に誕生した、潤徳小学校。それぞれの時代にあわせて、学校の形も変化してきました。そんな潤徳小の歩みを一緒に振り返ってみましょう!

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写真とともに振り返る 潤徳小150周年のあゆみ

潤徳小150年のあゆみ

  • 明治6年
    5月12日 潤徳学舎 開校

    5つの村(高幡村、三沢村、落川村、百草村、程久保村)の人たちが集まり、もと寺子屋だった三沢の「医王寺」を村の学校にすることにきめました。
    そして、学校の名前を「潤徳学舎」とつけました。
    また、当時三沢は神奈川県多摩郡で、その中で24番目にできた小学校なので「第24番小学」ともいわれていました。

    小学校には6才で入学しました。

    ▲いちばんはじめの校長、大塚四郎右衛門先生

  • 明治8年
    そして「潤徳学校」へ

    明治7年に医王寺から、となりの土方篠三郎さんの家にうつった学舎は、その翌年に校名を「潤徳学校」とかえました。そのうちに児童がふえ、校舎がせまくなりました。そこで村の人たちは、みんなでお金を出し合い、土方さんにも今の七生農協の所の土地をきふしていただきました。そして明治11年、村人のおかげで三沢村に新校舎ができました。職員室だけ2階だてで、畳がしいてありました。当時としてはとても立派な建物でした。

    明治22年、高幡村・三沢村・落川村・程久保村・百草村・南平村・平山村の七つの村がいっしょになって、「七生村」ができました。
    明治26年、いままで神奈川県だった南多摩郡七生村が、東京府(いまの東京都)になりました。

    潤徳学校の額。当時の神奈川県知事に書いてもらいました。体育館の入り口に今もかかっています。

  • 明治36年〜
    決められた教科書で

    日本中の学校が、国できめた教科書を使うようになりました。そして、「父母をたいせつにし、身をすてても国のためにつくすように」と強く教えられるようになりました。
    またその頃には、ほとんどの子供は学校へ通うようになり、潤徳でも運動場を広くしたり教室をふやしたりしました。
    運動会・学芸会・てんらん会・遠足などもするようになり、楽しく元気に勉強しました。

    明治41年には教育についてのせいどが変わり、いままで4年間だったのが6年間勉強するようになりました。

  • 大正元年〜
    ひらけゆく七生村

    ▲玉南鉄道(今の京王線)が通ったときのもの

    大正にはいってからは、落川分校に通っていたこどもも本校に通うようになり、生徒の数はさらにふえました。新しく二階だての校舎をたてたのが大正13年のことです。
    運動場の南がわには学校の畑があって、高学年の生徒が野菜をつくっていました。水道はまだありませんでしたから、みんな井戸の水をつかっていました。

    新校舎のたつ1年前の大正12年、おそろしい関東大震災がおこりました。七生村では家がたおれることはありませんでしたが、たなの物が落ちたり、かわらやかべが落ちたりして、みんなびっくりしました。

    それから、日野橋ができたり、バスや電車も通ったりして村はひらけていきました。

    ▲大正14年にとった1年生の記念写真です。当時のふくそうがよくわかります。

    ▲子どもたちが夢中になって読んだざっしです。

    ▲ヨーヨー、コマ、けん玉は子どもたちの楽しいあそびどうぐでした。

  • 昭和8年〜
    戦争へ

    ▲昭和8年のうんどうかいのようす。

    昭和も10年ごろになると、着物にランドセルすがたがだんだん少なくなり、ようふくで通学する子どもがめだってきました。
    高尾山のえんそくには、豊田駅まで歩いて電車にのりました。浅川駅(今の高尾駅)から山の上まで、ずうっと歩きつづけました。

    また、うんどうかいは、村をあげてのたのしみでした。農家の人はのら仕事をやすんで、朝からごちそうを作り、一家でおうえんに来ました。

    昭和8年に教科書がかわりました。表紙やさし絵がうつくしい色ずりになりました。しかし、強く書かれていたことは「日本人として、国をあいする人になりなさい」ということでした。

    みんなの楽しみだった修学旅行は、昭和16年をさいごに32年まで中止になりました。
    学校では、そろって歩くれんしゅうをし、男の子はぼくとう、女の子はなぎなたでからだをきたえました。
    ノートやえんぴつがなくなり、はたらく時間がふえていきました。戦争がはげしくなると、学校にきふされた二宮金次郎の銅像はたいほうを作るため、国に出しました。先生やお父さんたちも死ぬかくごで戦場へ行き、多くの戦死者が出ました。ぶきみなサイレンとともに、敵機が上空に来て先生といっしょに高幡山へにげこみました。東京はくうしゅうで焼かれ、日野にもばくだんが落とされました。

  • 昭和20年〜
    戦争がおわって

    長かった戦争がおわりました。このころは食べるものや着るものもなく、おおきなリュックサックをせおって買い出しにいく人がおおぜいいました。

     政府は、平和を愛し、文化をたかめる人間をはぐくむために、あたらしい教育のきまりを決めました。
    くらしを中心とした「社会科」ができ、4年生にはローマ字のべんきょうがくわわりました。
    それまで女の子だけがならっていた「さいほう」は「家庭科」となり、男の子もいっしょに勉強するようになりました。

    昭和21年、子どもたちはえいようが足りず、やせていたためミルク給食がはじまりました。寄生虫のいる子も大ぜいいたので、校医の先生やPTAの方たちの協力で寄生虫をたいじしました。

    昭和22年、七生村立潤徳国民学校は、「七生村立潤徳小学校」と名まえがかわりました。このころから、小学校は6年、中学校が3年になりました。

    ▲3年生の社会科の教科書です。

    ▲あたらしく出された、ローマ字の教科書です。4年生からつかいました。

    昭和27年、創立80周年を記念して、今うたわれている校歌がつくられました。
    多摩の自然のうつくしさ、浅川の流れのきよらかさ、それに、学校のめあてである「敬愛・自由・勤労」が歌いこまれています。

    PTAのあゆみ

    昭和23年、戦争の混乱がつづく中、PTA(父母と教師の会)がつくられました。在学児童の有無とは関係なく、学区内の全戸が会員として加入する方式でした。「わたしたちは過去・現在・未来にわたって学校のお世話になってきたし、またなるであろう」という地区住民のそぼくな考えから出発したのでした。
    発足当時の活動は、老朽校舎の補修や学校後援資金を得るための廃品回収やバザーの開催、スクエアダンスの講習会等でした。

    昭和25年、排水溝整備等。古い校庭と新しい校庭の間に川が流れており、木橋だった潤徳橋をコンクリートに変えました。こうした活動が全国的に認められ、同年、文部大臣から表彰され、感謝状をいただきました。

    昭和27年、創立80周年記念式典挙行。
    昭和30年、2ヶ所の水呑み場の新設、古材を利用した体育倉庫の建設、校庭周囲の金網張り、旧校地から植え木約300本を新校舎敷地に移植作業を行いました。

  • 昭和33年〜
    学校のひっこし
    「日野市立潤徳小学校」へ

    七生村と日野町がいっしょになり、新しい日野町がうまれました。七生村立潤徳小学校も、「日野町立潤徳小学校」と名まえをかえました。
    多摩動物公園ができたころから学校のまわりには車がおおくなり、通学や勉強にえいきょうがでるようになりました。また、生徒の数もふえ、教室がたりなくなったこともあり、現在の場所にあたらしく校舎をたて、ひっこしをすることになりました。

    昭和35年に完成した新校舎は、給食室ができ、完全給食がおこなわれるようになりました。

    昭和38年、日野町は「日野市」となり、潤徳小も「日野市立潤徳小学校」となったのです。

    ▲第1回 プール開きのようす。

    PTAのあゆみ

    昭和37年、〝交通安全母親教室〟が開かれました。登下校時に児童を交通事故からいかにして守るかが課題でした。

    昭和38年、創立90周年記念式典挙行。鼓笛隊が編成されました。

  • 昭和41年〜
    創立100周年
    児童の数は1500人超え

    昭和41年、これまでの木造校舎を防音鉄筋校舎にたてかえました。みんなに人気のある「ほほえみの丘」は、このころのお父さんお母さんのきょうりょくによってできました。

    まわりには団地や住宅がふえ、昭和48年にはとうとう児童の数が1500人をこえました。校庭にはおおいときで、プレハブ教室が14教室もたちならびました。

    昭和44年には体育館もできました。

    昭和48年、長い歴史をもつ潤徳小学校は創立100周年をむかえました。

    PTAのあゆみ

    昭和43年、ほほえみの丘がつくられました。その費用は廃品回収による売上と、工事の協力奉仕によるものでした。
    昭和44年ごろから最近のように交通事故が増えだしたため、市・警察・京王電鉄とも協力し、児童の安全対策に取り組みました。3月、体育館の落成式にて、メキシコオリンピックの体操の金メダリストなど13名を招き、コケラ落としに選手の名演技が披露されました。この費用も廃品回収の売上から捻出しました。また、本校のシンボルである山桜の記念植樹も行われました。

    昭和44年、児童1200名の内400名が新設校の八小へ移ることになり、PTAも財産分離を決定しました。2つある備品なら新しい方を、また廃品回収売上金全額を八小側に提供しました。

    昭和48年、創立100周年記念式典挙行。記念誌の発行・植樹・記念碑の建立・記念品の配布・記念講演等を行いました。また、その資金は、ベルマークの収集事業や会費、寄付金でまかなわれました。

    昭和53年、運動会で初めて入学予定者の幼児を招待して「宝ひろいゲーム」が行われました。秋には親子写生会を多摩動物公園で行い、楽しい1日を過ごしました。この頃、役員選出が難航し、一部でPTA廃止論も出ました。しかし充分な話し合いをした結果、やはり必要であるということになり、会員の結束はより強まりました。

    昭和55年、昔のおもちゃや遊びを子供達に伝えようという動きがあり、会員や地域のお年寄りの協力によって昔ながらの遊びや手作りコーナーなどがたくさん設けられ、目を輝かせて教わる子供たちの姿がありました。

    非行問題が低年齢化し、親のあり方や親子の愛を考える映画を七生公会堂で上映しました。

    創立110周年のための資金作りには、廃品回収・潤徳祭(バザー・模擬店・委託販売)を行い、目標をはるかに上回る資金を集めることができました。

  • 昭和58年〜平成5年
    子どもたちの平均身長・平均体重がどんどん大きく

    戦後えいようが足りず、やせていたこどもたち。大人たちの施策によりぐんぐんと大きくなり、毎年平均身長・体重がふえていきました。現在もどんどん伸びています。

    PTAのあゆみ

    創立110周年記念式典挙行。祝賀会では日野太鼓やPTAのコーラスが披露されたり、学校には校章旗が贈られ、記念樹・記念碑が建てられました。

  • 令和5年
    創立150周年
    未来へつないで、これからも。

    2023年5月12日で創立150周年をむかえた潤徳小。笑顔招福!をキャッチコピーに掲げ、記念の1年を盛り上げるべく様々なイベントを企画しました。2度とこないスペシャルな1年を、みんなで迎えられたことを嬉しくおもいます。

    ▲昔の校章(左)と、今の校章(右)

出典:「潤徳百年のあゆみ」、「潤徳のあゆみ」(百十周年記念誌)

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